やっちゃいけないよといわれるとやりたくなる
「これだけはやってはいけないよ」と言われると「それだけはやらなくては!」と思って
自滅行為を繰り返す愚かな子供だった。
子供のときお金を拾って警察に届けたらパトカーに乗せてくれた。サイレンを鳴らすボタンがどれなのか警察の人に質問すると、「教えたらおまえはきっと押すから教えるわけにはいかない」と言われた。そう言われるとよけい知りたくなるもので、「ぜったい押さないから教えてくれ」と私は迫った。
「ぜったいだな」と念を押された。
「ぜったい押さない」と私は繰り返した。
それで警察の人は、ようやくサイレンのボタンを教えてくれた。「これだよ」と言った瞬間、私の手はボタンを押していたのだった。
だが、それをばかな子供の話として、簡単に片づけられるだろうか。
よく知られているように、これをやったらまずいじゃないかなあと思いつつ、ついやりたくなってしまうようなところが人にはある。
たとえば扇風機がそうだ。
だめだろうな、だめにきまってるんだと思いながら、ついやってしまう。
「扇風機の回る羽根のなかに手を入れて痛い思いをする」
痛いのはもう最初からわかってるんだ。だが、やりたくなる。なぜかやってみたくなる。これを私は「日常のごくささいな死の欲動」と名付けたい。そんなことをしたら取り返しがつかなくなると思いつつ、人はやってしまうのである。
「CDをセットし、そのまま機械のなかに入って行こうとした瞬間、なぜか強引に、ディスクをなかから抜きだす」
そんなことをしてなんになるだろう。機械が壊れるかもしれない。CDに傷がつくかもしれない。だがやりたいのだ。死の欲動である。
やったことがないけどやりたくなることもある。
子供のころ、私は
「大勢の人が密集して集まっているのに誰も身動きをとらずしゃべりもしない」
という空間が苦手だった。
不気味なんである。
気持ち悪いんである。
こんなにたくさん人がいるのに、みんなが同じ方向を向いて、黙っている。
この異常な非日常の沈黙を、せめて自分の声で破りたい。
そういう衝動にしばしば駆られた。
たとえば、小学校では全校集会なんてものがあって、何百人もの生徒が黙って並んでじっと立って校長先生の訓示を聞いているのだが、
あれが、もう、ダメ。
「おまえら何やってんだー!」と叫び出したくなる。
まぁ一度もしたことはないけど。
「大勢の人が密集して集まってるのに誰も身動きをとらずしゃべりもしない」空間がもう一つある。
そう、劇場だ。
芝居の大事なシーンで騒いだりしたらまずいよなぁ、それは絶対やっちゃいけないよなぁ、と思えば思うほどやってみたくなるという矛盾。
大人になってからは沈黙空間に対する衝動は弱くなったのだが、そういうようなことに想像をめぐらせることは今でもたまにある。
私一人の言動でその日の芝居すべてをぶち壊しにした日には
関係者に半殺しにされるんだろうなぁー半殺しじゃ済まないなぁー極刑決定だなぁーとかそういうことを淡々と考える。
死の欲動だ。
舞台がシンと静まり返ったときに「わぁああー」と間抜けな声をあげて、観客に白い眼で見られ、劇場スタッフに両肩をガッチリつかまれて強制退去で連行されるバカな客がいたら
それが私でないと言い切る確証はどこにもない。
料理という日常にさえ死の欲動は忍び込む。
まずいだろうな、きっとだめなんだよなと思いつつ、世界中のあらゆる台所で取り返しのつかないことは発生しているのだ。たぶん。
「鍋物に、なめるとスースーする飴を入れてしまった」
これは実際、やったことがあるが、飴が鍋の中で溶け、あのスースーしたミント味が鍋全体に広がった。これはもはや一種の汚染だ。食べられたものではない。
ついやってしまう。よくわからないがやりたくなる。
注:宮沢章夫氏の書籍からの引用を含む。
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