« 2009年5月 | トップページ | 2009年7月 »

2009年6月

2009年6月26日 (金)

他者のいない客席

3人の話をする。

☆1人目。

ケラさんの、ある舞台を見ての感想。

一番駄目だと感じたのが客席の状態だった。

ひいては、この状態を許容しているとしか思えぬ「舞台の責任者」も駄目なのかもしれない。

なぜ駄目かというと、「他者」がいないから。

他者不在状態は、他者(例えばケラさん自身)が見た時に大きな違和感を感じる。

何でもいいから関連商品は買う、みたいな客があまりに多すぎるとヤバイんじゃないか。

「味方」しかいない客席はつまらない。(もちろん「敵」しかいないのは最悪だが)

程良く、3割程度は「あまり好きじゃないなーコレ」と思ってる人や「なんだかよく分からないなぁ」と思ってる人が混じってる客席が好き。

そんなうまくブレンドできるわけないんだけど。

☆2人目。

西村雅彦さんがエッセイに書いていたこと。

自分の劇団が駄目になっていっていると感じて悩んだことについて。

人気が出て動員数が増えチケットが取りにくくなる。

観に行きたいなと思っている新しいお客さんはチケットが取れない一方で、

何度も足を運ぶ常連さんが常に最前列を取るようになり、メディアとして「閉じて」いく。

そして、何度も来ているお客さんはオチを知っているので、オチを言う前に笑い声が聞こえてくる。

芝居の内容の良しあしで笑うのではなく、極端な話、役者が舞台に出てきただけで笑いが起こるようになっていった。

西村さんは「頼むから見に来るのは一回だけにしてくれよー」と思い、

「なんか違うんじゃないか」という思いがどんどん大きくなっていったという。

☆3人目。

私の友人がある劇団の封印公演を観に行った時に話していたこと。

総決算のような内容で、今まで見に来てくれたお客さんに対して御礼のような舞台だったし、それを客側も分かっている感じだった。

でも自分は個人的には少しだけ違和感を感じた。

例えばそれは、一つ一つの役者のリアクションに対して熱狂的に笑うファンの人たちに対して。

戯曲の内容や、ギャグに対して反応しているのではなく、まるで機械的な反応を繰り返している一部のお客さん達を見て少しだけ悲しい気持ちがした。

この状況は、あまりに役者さんや、脚本家に対して申し訳ないんじゃないかと。

この劇団は、10年~20年の間に実は数回しか公演を行っていない。

その理由の中の一つは、そして彼らが封印しようと思った理由は、もしかすると私たちお客にもあるのかもしれない。

あまりに機械的な反応は、決して役者さんやスタッフ達を育てることはなく、いい影響を与えない気がする。

私はこの3人がみんな同じことを言っているように思います。

そして、これらの指摘はある程度当たってるのではないかと感じる。

かと言って、ごちゃごちゃ細かいところまで決められるのなんてまっぴらだ。

「笑いすぎちゃダメ」「笑わなすぎてもダメ」「関連グッズ買っちゃダメ」「二回以上来たらダメ」

そんなことを客に強制する権利は誰にもない。

それはお客さんの自由だから。

好きな芝居に、好きなだけ行って、自分の好きなように見ればいい。

ただ、熱心なお客さんが芝居を駄目にしてしまっているのだとしたら、それはなんとも皮肉である。

もちろん、たくさんのお客さんに来てほしいし、大きな反応を見せてくれるのは芝居を作る側からしたら嬉しいことだと思う。

でもこういう話を聞くたびに、あるいは自分が「味方だらけの客席」に余所者としてまじる時、

少しだけ胸がチリリと痛む。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年6月19日 (金)

メメント・モリ=死を想え

身内に病人が続出している。

治るのから治らないのまで、いろいろ。

「若そうに見えても人間60過ぎりゃどっかしらガタがくる」というのが目下の話題。

悲観はしない。ただ、そうなんだな、と思うようになった。

友人や知り合いでも、家族が入院したとか亡くなったとか、そういう話を聞くことが増えている。

自分はまだそんな知らせをたくさん聞く年齢ではないと思いこんでいたが、

長生きできる日本人は案外少ないのかもしれない。

・・と考えていたころ、お坊さんから興味深い話を聞いた。

発表されてる寿命というのは平均寿命ではなく

「今0歳の子があと何年生きるか?」という平均余命だそうだ。

つまり「今生きてる人」の平均を取ったのであって

死んだ人は含まれていないため、実際より高い数値になる。

死んだ人を含めて本当の平均を取ると5560歳ぐらいが平均寿命で

お坊様も60以前の方の葬儀の方が多いと実感してるという。

なるほど。

それならば私の周りでそういうことが起こっているのと時期的にも一致している。

高齢社会は余命が高く、子供が多い国は余命が低くなる。

「国は寿命を発表したら年金の支払い時期を下げないといけないから余命を発表してるのではないか」とお坊様はおっしゃっていた。

たぶん、それ、当たっている。

実際は年金をもらう前に亡くなる方も多いのだろう(でなければ今の年金制度はとっくに立ち行かなくなっているはずだ)

お坊様は、60歳になったらいつ死んでもおかしくないという覚悟が必要だ、ともおっしゃっていた。

漠然と寿命は80歳という思い込みはなくそう、そう思いました。

寿命は60、あと何年、と思えば生き方や覚悟も違ってきます。

自分の生活を見つめなおし、充実した人生を送りたいと思います。

人は死ぬ。

そしてそれぞれが「固有の死」を、死ぬ。

わたしにとって、他人の死というのは、先んじるか、遅れるかのどちらかしかない。

悲劇の死と、そうでない死があるのではない。

ほとんどすべての死は、不意の、あるいは非業の死なのだ。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2009年6月18日 (木)

饅頭屋(佐藤信インタビュー)

佐藤信さんが「せりふの時代」で話していることが面白い。

あぁ、上手に説明するなぁ、そうそう、そう思います、と膝を打つことしきりだった。

饅頭屋の話も。

こんなような話をしていた。

(記憶で書いてるので一字一句同じではありません)

例えばものすごく売れて、かりに年収何億になったとしても、そういう双六の上がりのような成功は、なにか貧しい気がする。

それは目指している贅沢さじゃないと自分は思う。

演劇を志した時に、双六みたいな成功の道を目指すかどうかという問題です。

佐藤さんは劇場や演劇というのは、経営・生産レベルでいうと「饅頭屋」ぐらいだと思っているんだとか。

その饅頭屋が、手でこねるのをやめて機械を導入する、その展開をどう受け止めるかなんだと。

もちろんテクノロジーは進んでいるから、手で作ったのと区別がつかない味の饅頭ができる。

手で作ったもののほうが、必ずしもうまいとは限らない。

それでもなお、手でつくるか機械を導入するかの決断はある。

劇場というのは、年々事業が拡大して予算が増えてくると、端々に手でこねていない個所が出てくる。

例えば、役者が手にする道具もお金をかければ立派なものはできる。

本物の宝石を使うなどして。

だけど、お金がないところで、ガラス玉を使って苦心してつくったものが、舞台で見ると本物以上の輝きを放ってることだってたくさんあるでしょ?と。

赤福を名古屋駅で買うか、お伊勢さままで行って食べるか。

ただし、両方並べて食べ比べてみても、味は変わらないかもしれない(笑)。

だけどその違いは、やはりはっきりとある。

お伊勢さまの参道で「これが赤福かぁー」って食べるのと、なにかが違う。

人の感覚というのはそういうもの。

わざわざ手間暇をかけてお伊勢さまで赤福を食べるというのは、とても贅沢なことです。

本来、演劇というのはそういう贅沢なものなんです。

たくさんの才能の知恵と工夫を結集して、毎日毎日、その日の観客のためだけに上演される贅沢さ。

ところが、最近の演劇の「贅沢」というのは、豪華絢爛な舞台に人気者が出ているのを高いチケット代を払って見る、ということにすり替わってしまっているような気がしますね。

・・・と。

あああーなるほどー

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年6月 9日 (火)

「パンドラの鐘」(蜷川Ver.)

「賭けをしましょう。

いつか未来が、この鐘に触れずに、あなたの魂に触れることができるかどうか。

滅びる前の日にこの地を救った古代の心が、ふわふわと立ち上る煙のように、

いつの日か遠い日に向けて、届いていくのか。

あなたは、古代の心は、どちらに賭けます?

俺は・・・・・・・・・・・“届く”に賭けますよ」

1999年。

作:野田秀樹

演出:蜷川幸雄

CAST:大竹しのぶ(ヒメ女)、勝村政信(ミズヲ)、生瀬勝久(イマイチ)、松重豊(ハンニバル、男)、壤晴彦(ヒイバア)、宮本裕子(タマキ)、高橋洋(オズ)、森村泰昌(ピンカートン未亡人)、沢竜二(狂王、カナクギ教授)ほか

公立の資料館で二度見た作品。

一度目は何も見ずに真っ白な状態で。

二度目は戯曲を手に持って蜷川さんの演出の仕方を勉強しながら。

今回、三度目の再見。

私という人間は野田さんの提示してくるものには「鈍い」ような気がいつもしている。

野田さんに才能があるのは分かる。

でも、自分の備え持っている感覚ではさほど共感しないしあんまり分からない。

つまり自分の中に、野田戯曲を理解する「感情の公式」を持っていない。

だから、こうかなぁ、ああかなぁ、と理屈であれこれ想像するしかない。

それを踏まえた上で、私でも分かること、私が考え付いた範囲のことを書いてみたい。

野田秀樹の書く戯曲は着地点が見えないほうが面白い。

逆に言えば、先が読めてしまうと楽しみが減ってしまう。

その点で言えば、「パンドラ」は終盤まで着地点が読めず、刺激的だった。

「パンドラの鐘」は、いつかの時代のどの場所とも知れない古代王国の物語だ。

それと同時に、太平洋戦争時の日本(あるいはアメリカ)がフラッシュバックする。

タイトルにもなっている「鐘」が、昔と今をつないだ時・・・

・・・ネタバレになるが、

端的に言うと、パンドラの鐘は長崎に落とされた原爆である。

古代王国の原風景は未来の日本の長崎という町に重なる。

1945年の89日。

そして物語を引っ張る「ミズヲ」という名の葬式屋の男。

ミズヲというおかしな名前が

「ミズヲ」・・・「水を」へと繋がった瞬間に野田戯曲は輝きを放つ。

大竹、勝村、松重、生瀬らが素晴らしいのは言うまでもなく、

壤や森村の好演も印象に残っている。(敬称略で失礼致します)

爆発音で終わるラストは不気味で恐ろしく、美しい。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年6月 8日 (月)

中国語の電子辞書が二代目になった

3年ぶりに電子辞書を新調した。

電子辞書はキャノン・カシオ・シャープが三強(たぶん)で

中国語となると前の二つどっちか。

前もキャノンかカシオで迷ってたのだが、

結局、前回と同じキャノンのwordtankシリーズに。

収録辞書のラインナップはカシオのほうが好みなのだが、

カシオには複数検索機能がついてないのだ。

キャノンはおおむね満足だけど

あえて難点を挙げるなら、タッチペンの反応がイマイチなのと

英語のブリタニカが入ってたらもっといい。

両方の長所を合体させたやつがあればいいのにー。

個人的には「大漢和辞典」と「漢語大詞典」を入れてほしい。←分厚い百科事典サイズでそれぞれ10数冊分ある。ムリ。

女性の腕でこの重たい本を持つのはキツイっす。

辞書引くだけで腕ムキムキになっちゃう。

それから白川静の「字通」「字訓」「字統」も入れてほしい。←これまた恐ろしいほど重い本

今回買ったんは定価56000円。

ごそっとお金が減りました。

うひー。

今までのも大事に使ってたので(1回アスファルトの道路にガンッって落としたけど・・・)、機能低下もほとんどなくまだまだきれいに使える。

のでこちらは、余所様のお宅にお嫁に出すことにした。

大事にしてもらえよー。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年6月 6日 (土)

コースト・オブ・ユートピア

蜷川さんが今度はこんなのやるらしい。

http://www.bunkamura.co.jp/cocoon/lineup/shosai_09_coast.html

に、にまんきゅうせんえんて。

誰が買えるんですか・・・。

チケット代もありえないがスケジュールもありえない。

同日に第一部。第二部。第三部。

三部あわせて、

上演時間9時間。(死んだ・・・・)

土日はまだ分かるが、平日に丸一日さいて芝居を見ていられる人がそんなにいっぱいいるのだろうか?

「表裏源内」が賞味4時間弱くらいだったのですが

内容は面白かったけど、耐久時間的にはけっこう限界に近かったり。

(映像だったおかげでストップさせたりお茶飲んだりできたので助かったー)

体操の時間と仮眠の時間とおやつの時間と作らないと・・・・・・

9時間もじーっと座ってたら私は彫像になってしまうと思う。

体力に自信のある方、挑んでみては・・・?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年6月 5日 (金)

「青ひげ公の城」

青ひげ公の城 七つの開かずの扉を叩く

ダダダ ダダダ ダダダ ダダダ

春の嵐が ダダダダダ

http://www.ryuzanji.com/r-aohige.html

流山寺版のほう。

青森県のせむし男。毛皮のマリー。レミング。奴婢訓。書を捨てよ町へ出よう。

寺山修司のことを考えるとき、私が対極として思い浮かべるのが谷川俊太郎だ。

寺山さんの紡ぐ言葉は、現実への敬虔さを欠く。

どこを切ってもがらんどうで痛々しい。

嘘の塊という感じがする。

その点、谷川さんの詩は現実に敬虔だ。

寺山が露悪的、谷川が偽善的と言うと大雑把すぎるか。

(私はこの二人の詩人が嫌いなわけではない)

小説と同じ見方で詩を見ても、詩を受け取ることができないのと同じように

合理性や整合性で寺山修司の芝居を見ても受け取ることができないだろう。

詩は、正直な自分を出すべきだ、と言う。

分からない。

自分の本音そのものが分からないのに、どうやって「正直な自分」を知ることができようか。

むろん、建前だけで生きているわけではない。

しかしどれが本音でどれが建前だなんて、どうして断言できるだろうか。

・・なんてことを見ていて考えました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年6月 4日 (木)

「朧」副音声

「朧の森に棲む鬼」副音声。

市川染五郎・阿部サダヲ・古田新太の御三方で。

古ちんがずーっとしゃべって、染さんとアベサダはずーっとゲラゲラ笑ってるだけだった・・・。

笑い過ぎでアゴが痛い。

笑いジワで顔くしゃくしゃ。どうしてくれる。

「逆木(圭一郎)さんが舞台から足踏み外して落ちた」っていうだけの話なのに古田さんが話すと呼吸困難に陥るほどおかしい。

ラジオ番組を長くやってるだけあって、話し方がうまいんだな・・・。

「(落下の瞬間に)斜めに消えた!」

「(自分は)台詞覚えは遅いのに飽きるの早い。

だいたいは台詞覚える前に飽きてる」

早 す ぎ る。

飽きんな(笑)!

「よくあるじゃん おまえ早く引っ込めよみたいなやつ

見てて 舞台でおまえずっとしゃべってっけどそんな面白くないんだよ・・・みたいな」

毒舌。

自分で観に行っといて「引っ込め」ってアンタ。

そりゃないよと思いつつ

しかし古田さんの言うことは筋が通っている。

「そいつのせいで面白くないこととかあんじゃん」

・・・・・・ある。

思ってても言いにくいことをこの人はビシッと言ってくれる。

まるで嫌いな人の話をしてるみたいに聞こえるかもしれませんが、

この人ほど勉強熱心によその芝居観に行っている人を私は知りません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年6月 2日 (火)

「その鉄塔に男たちはいるという」

タイトルから想像してたのとは全く違うお話だった。

こういうの書くのね土田英生さんて。

「橋を渡ったら泣け」が土田さん作だったと思うのだけど

あの芝居とはまた印象がだいぶ異なる。

pnish*「その鉄塔に男たちはいるという」

http://www.pnish.jp/index.html

すべてが城之内(コスダさん)ありきに思えてしまう。

またしても実力の差を見せつけられてまたもや深手を負った。

格が違う。

ビクビクしててものを知らない役が非常に珍しい。

(みんなに状況を解説するポジションが多い方だと思うので)

城之内を見ながら、ふと、白井晃さんの芝居にコスダさん出るといいかもーと思いました。

若者たちはなんつうか・・・・4人とも若い!(当たり前。)

ブレない芝居を中心に見てきたのでブレる若さがフレッシュ。

「あっそこ、そういう風に言うのかぁ」とか「あーそっちからやるのね」とか。

一生懸命やってるのはよく分かるのだけど、ときおり着地点が少しずれて・・というより、こうやればもっと良くなるのではないかと感じるところがいくつかあった。

自分でやれって言われてもできないんだけど。

扉座の上原くんは将来、猫のホテルの市川しんぺーさんみたいになりそうでいいなぁと思いました。

少し苦言を吐くと、

もちっとこう、ギャグやるなら思いっきりハチャメチャやってほしいし

あるいはもっとぐっと重くて暗い球を投げてほしいなぁと思った。

どっちつかずな感じも少ししてしまった。

「気軽に観る事ができて、楽しい舞台」というのがpnishのコンセプトなので、それ考えればこれでいいんだと思う。

ただ、観客も見ててシンドくなる芝居のほうが、私は嬉しいな(笑)

それか、新感線のおポンチのようにひたすらオバカ街道を突っ走るか。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2009年5月 | トップページ | 2009年7月 »